第七十一話
日本の一番長い日〜5系統の風景

田安門から北の丸公園を入ってすぐ、日本武道館の前を抜けると緑の公園で一息つくことなる。九段の暑い照り返しも木々の間と緑の広場では少し柔らかく感じるようでもある。武道館は何かの大会とかイベントとかがやっていなければ閑散としていて静かであり、この公園自体がその広さもあるのだろうけど人で溢れるということもなく、桜の時期を外せばいつ訪れてもポツリポツリと静かに歩く姿を目にするだけだ。

公園の緑を抜けて – 自分としては千鳥ヶ淵に沿う林の中を歩くのが好きだ – 代官町の出口に向かうと更に人が少なくなった。コチラに出ると半蔵門か竹橋の方に歩くことになるが、地下鉄の駅までどちらも中途半端であるから不便に思われているのかもしれない。

その出口の脇に煉瓦造りの瀟洒な建物がある。かつては国立近代美術館工芸館と言ったが、何故か加賀金沢の方に美術館が移転し、その建物は今の所何にも使われないで閉じている。予定では国立近代美術館別館となるらしいが、2年程前に閉じてから開く様子がない。工芸館時代は勿論中に入って見学できて自分も訪れたが、今の施設になってからは開く感じでないのが少々残念でもある。

この洋館はかつての帝国陸軍近衛師団の司令部である。東京の管轄は第一師団だったが、一師とは別に宮中守護の役を当てられた師団で宮城のそばにあって任にあたった。尤も、太平洋戦争中は師団の一部が外地に出て一般師団と共に作成に従事しているから、陸軍内でのその立ち位置は私自身よく理解出来ていない。ただ、宮城守護を担当していたのは変わらないので、意味合いとして特別師団ではあったようである。
そんな立場から、太平洋戦争の降伏に至る過程で事件に巻き込まれることとなった。

昭和史研究の第一人者であった半藤一利氏の名著「日本の一番長い日」では、鈴木内閣の終戦工作を通じて8月15日を迎えるまでの緊迫とした出来事が描かれるが、書の中で近衛師団司令部で起こるやりとりと並行して繰り広げられる玉音放送のレコードの強奪計画が、山場の一つとして書かれている。司令部で起こるやりとりは、一言で言えば、天皇の意を汲んだ終戦工作派の信念と、決起将校が掲げる大義と彼らが信ずる亡国の美が衝突する時間でもある。それぞれの内面の正確な所は今となっては読み取れないにしろ、書中で書かれた師団長に対する行動は事実であるから、文中に書かれるリアリティが読み手に襲ってくる。結果、決起将校の一部が玉音放送前に宮城前広場で自殺することで東京での行動が終了するが、それは理性を排した別の観念で破滅に向かって動く時代が一旦は終了することであったとも思う。

日本の歴史に於いて、「東京」(江戸ではない、東京という呼び名の都市)で起こる出来事は生々しい。恐らくそれは、明治以降、特にこの100年の内に発生した出来事の記憶や空気、場所そのものが、今でもそこかしこに残っているからだと思う。またこのことは、他の都市とは大きく異なる東京の特徴と言えるのではないか。

例えば、京都を舞台に語られる出来事とは幕末以前の内容が大抵で、新撰組がここで暴れたという事象は知っていてもその場所の多くは案外に姿かたちが変わってしまっていることも多く、何分二世紀とかそれ以上も前の話であるから、目の前の場で起こったことと想像するのが私には困難である。加えて20世紀に入ってからの事例が薄く、街の歴史にリアリティを感じることが難しい。

勿論「東京すごい、他の都市とは違う」とかの優劣を言っているのではない。街歩きで感じる歴史的な現実感の話である。

これは大阪など他の歴史ある都市も同様で、戦争による破壊行為や自然災害の傷跡を除けば、生々しさを感じながら街を歩くという体験が困難なように思う。
勿論日々の生活はいずれの街でも継続していて歴史は繋がるのだが、時代を変えるような出来事、街の風景をここまで多く今に伝える都市としては、東京は日本でも稀有な存在であると思われるのだ。

※戦争の遺構は自分にとってはリアル感しかない。広島、長崎、沖縄等。個人的に沖縄本島を仕事以外で訪れたことが無いのは、その空間に残る傷跡が生々し過ぎて辛くなるからである。

暑い最中であったが、司令部から北桔梗門をくぐって東御苑を通り、大手門から坂下門、二重橋まで歩いてみた。わずか4kmほどの距離の内で起こった日本を巡る出来事とその後の社会を改めて考える日が、今年も間も無くやってくる。

旧近衛師団司令部

旧近衛師団司令部

静かで今日も暑い二重橋

静かで今日も暑い二重橋

●5系統 担当:目黒車庫
目黒駅前~魚藍坂下〜一ノ橋〜芝園橋~日比谷公園〜馬場先門〜八丁堀〜永代橋
白金から麻布を通り抜け、日比谷通りから東京駅をかすめて隅田川に至るルートです。出発点とその途中、終着点の景色や雰囲気があまりにも異なる路線で、今に残れば乗ってみたい系統です。