第五十一話
荷風の花街〜30系統の風景

「花街」と言われるところを楽しい場所と見るか後ろめたい場所もしくはこの世の地獄と見るかは、その人によって異なるだろう。

東京で言う花街はもっぱら男性向けとなるが、「娼妓」が相手をすることをメインとする「遊郭」と、芸妓の芸を酒と共に楽しんだ「花街」に分かれた。もちろん歴史的には、「遊郭」の娼妓は芸を叩き込まれ、上位の娼妓になるほど教養が求められたが、20世紀に入ってそのような伝統は次第に薄れてきた。一方の「花街」は三味線と踊りがメインとなる芸を楽しむ場所であって、本来そこには薄暗い意味合いはなく、芸妓は「伝統芸能」の言葉がつくほどの肯定感がある存在となっている。前者は吉原、後者は京都の祇園宮川町あたりを思い起こしてもらえれば良い。

「とは言うものの」で、お金を使う人たちが集まるのであれば、「花街」も伝統文化で終わるわけではなく、規模の大小はあれ「私娼街」が自然か意図的にかは別にして築かれる。遊郭とは違ったこのような「花街」が隆盛を誇ったのは第二次世界大戦が始まる前あたりまで。戦後は遊びの性格が変わって、古くからの歓楽街から歌舞伎町に代表されるような遊興街に人が集まるようになり、一気に廃れていった。

このような古くからの「花街」に、その魅力を見つけて足を向けたのが、永井荷風だった。永井は戦前からこのような地に通って、そこで街と働く人々に伝統と美とそこで動く人達の生き様を求め歩き、戦後も廃れていく一方の花街に足を向け、そこに働く芸妓や娼妓との交流を求めた。

永井が浅草の踊り子たちと一緒に撮った写真は多く残っているが、なじみとした花街の一つには東向島の玉ノ井があった。向島の花柳界は現代にも続く小唄と踊りの地として知られ、大ぴらに取り上げられることは少ないにせよ、今に至るまで芸の地として根強く活動している。この花街に張り付く形で存在していた私娼街が玉ノ井だ。

東武電車の北千住から南は、住宅街を曲がりくねって縫うようにゆっくり走り、鐘ヶ淵を過ぎて向島の中心に入ってくると、一層ノロノロとスピードを落として走っているように感じる。水戸街道沿いには多少高い建物が建つものの、この辺りの住宅は基本的に低く、また木造家屋も多く、隅田川の西側とはまた違った景色を見出すことになるだろう。走る道は細く迷路のような道筋で、一旦入ったら出られなくなる、そんな気に陥ると言うのもあながちオーバーな表現ではない。このような街並みが曳舟、押上と続く。すぐそばに東京スカイツリーが高く聳えるが、その麓の界隈は地べたに這うように密集した建物が広がっていて – もちろんスカイツリーから下界を見下ろす人々はそんなことを意識することもないが – 何か街の光と影を見ているようだ。
そんな地域の界隈、東向島駅を少し北側に歩いたところに、玉ノ井と呼ばれる地域があった。

今では表立って客を取るようなところは無いものの、表通りから少し入った細い道沿いにはかつての色街の名残で漆喰やタイルの壁を持ち、ドアや軒先にも少し意匠を凝らしたような建物がわずかながらに残っている。それらは浅草辺りの華やかさや吉原のような直球ど真ん中な街とは異なり、静かで薄暗く、煙草と汗と化粧の香りが充満するような空気が街並みを支配していて、今は普通の住宅街であるのだけど、先入観を排すように努めたとしても雰囲気そのものは変えようがないくらいに時間が止まっている。

永井荷風はこのような街に人間としての本能と美を求めた。恐らく飾ろうとしても飾りきれない、人生が醸し出す暗さや汚さを持ちながらも懸命に生きる人々に、人間の魅力を見たのだろうと思う。小説「濹東綺譚」はこの玉ノ井の地を舞台に書かれた小説である。小説家と私娼との交流を描いた話だが、この話が評価されているのは単なる興味本位で街と人を記述するものではなく、そこに生きる人々の空気感を文章に表現したものだからだ。

繰り返すが、今では普通の住宅街である。その手の店が立ち並ぶ訳ではない。
が、隠しようが無いその空気に自分としては少々疲れ、かつて確実に存在した人生模様に恐らく慣れることはない。

左に進むと迷宮に入る

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●30系統 担当:柳島車庫
東向島三丁目~言問橋~雷門〜菊屋橋~上野駅前~上野広小路~須田町
向島と浅草、上野、神田を結ぶ路線です。本所吾妻橋から先は、24系統と同じ経路を辿ります。