第七十五話
あの時の猪木〜39系統の風景

アントニオ猪木は死なないと思っていた。

自分も含めていつかはいなくなるんだろうというのは、感覚として持っている。居て当たり前なのだが、当たり前なことではない。だから人に会うのも「そのうちに」ではダメなのである。我々には常に「現在」しかない。

そのようなことを頭では理解するものの、普段の生活では「いつかそのうちに」の連続である。結果、機会を逸して「後悔」の繰り返しとなる。

それでも猪木は死ぬ存在では無かったのである。

「昭和が懐かしい」「昭和が良かった」という言葉は好きではない。少年時代ではあったが、それでも酷い常識もたくさんあった。「比べて今の時代は..」という気持ちもわかるが、普通に生活するだけなら現代の方が圧倒的に便利だと思う。もちろん息苦しいことも増えたが、人間の欲求で大きな位置を占める「効率の追求」という点では格段に向上したことは否定出来ないだろう。

「良いか悪いか」は別にして情報源が限られていたから、みんなが同じ内容で語ることは出来た。いや、話題を共通化せざる得なかった、とも言える。不満や批評の自由な吐き出し方法も無かったため、権威者-マスメディアも含む-の発信を一方的に聞くしか無かった。だから情報を自ら判断し考えるということを深く行わざるを得ないか、または盲信するしかない。
結果、少なくとも同じ話題に触れざるを得ないから、興味のある無しに関わらず、「知らない」ということは少なかったように思える。

アントニオ猪木は、みんなが知っていた。猪木を通じてバックドロップを覚え、コブラツイストの真似事をしたのだ。

「プロレスは八百長だ」とかの揶揄はどうでもいい。自分では決して出来ない闘いを猪木とその軍団は、我々に見せつけていた。ひょっとしたらそこには「ストーリー」があったのやもしれない。それでも我々はそのファイトに熱狂した。リング上で繰り広げられるその「戦い」は、自分達の生活とは全く別世界の人のものだった。単に肉体同士の戦いだけではなく、毒霧や凶器、リングサイドの椅子による攻撃が繰り広げられるなど、子供ながらにどうして警察沙汰にならないのか不思議で仕方が無かったが、それらも含めて「プロレスリング」は超越した人々が繰り広げる、とことんまでの「戦い」だったのである。

そしてその中心にはアントニオ猪木がいた。

「燃える闘魂」「卍固め」「コブラツイスト」

国会議員となったり反対を押し退けて朝鮮に行くなどその行動は多岐に渡ったし、その全てがアントニオ猪木だが、それでも彼を一言で表すならば、「プロレスラー」を置いて他にない。

かつて蔵前の地にあった蔵前国技館は今でも何となく相撲というと思い出される場所でもあるから、子供の頃の記憶とは大人のそれとは違うのだなとも思う。横綱といえば、北の海、千代の富士だが、呆れる程に強かった北の海が勝ちまくったのは両国ではなく蔵前である。千代の富士は蔵前と両国で優勝した唯一の横綱だ。
それと同時に猪木率いる新日本プロレスといえば蔵前国技館。テレビ朝日の金曜夜8時の舞台である。

ハルク=ホーガンとの戦いで長州力が乱入し、猪木のリングアウト勝ちという不可解な判定に暴れたファンが座布団を投げまくって新日本プロレスは蔵前を出禁になるが、それらも含めて猪木の伝説である。

そう、猪木は勝たなくてはいけなかったし、何があっても勝った。負けることはないし、決して倒れることはないのだ。

病身のYouTubeは賛否があったが、病に倒れても必ず治って帰ってくると思っていた。恐らく全国1億5千万人のプロレスファンも同じことを思っていただろう。

「殴って下さい」と言われ、殴られて感謝される人。「闘魂注入」の言葉のもと、吹っ飛ばされて「有難うございます」と頭を下げる。二度と気合のビンタで殴ってもらえることも無くなってしまった。

猪木もいなくなったし、蔵前国技館も歴史の中である。それでも改めて手を合わせるつもりで蔵前に立った。そこにはその存在を示す碑一つ無かった。

なるほど、伝説には碑文など要らぬ。自分達の記憶にあれば良い。

そんなことを思いながら、蔵前橋の向こうにスカイツリーを見上げたのである。

蔵前国技館跡地 - 蔵前公園と東京都下水道局

蔵前国技館跡地 – 蔵前公園と東京都下水道局

●39系統 担当:早稲田車庫
早稲田~江戸川橋〜大曲〜伝通院前〜本郷三丁目〜上野広小路〜厩橋
15系統と16系統を中継するように神田川沿いから小石川に抜けて上野、蔵前までを結ぶ系統です。今でも都バスが東は上野、西は高田馬場まで足を伸ばして結びます。個人的にも利用することが多い、身近なルートです。