第二十三話
巨人軍のヒーロー~18系統の風景

我々の親の世代の多くがそうであるように、我が家でも夜はプロ野球だった。今でこそパ・リーグも相当に人気があり、またどの球団にも多くのファンが付いているが、テレビ中継の関係からか、私が子供の頃は巨人ファンかアンチ巨人ファンかのいずれかであったように思う。我が家はアンチ巨人であった。

親の世代なら王、長嶋だろうけど、自分はその頃を知らない。大体なんで巨人「軍」なんだ?中日軍とか西武軍とかは言わないが、これも伝統というやつか?
けどファンだろうが、アンチだろうが、プロ野球と言えば良くも悪くも巨人。今でこそ阪神が全国区だけれど、関西はまだしも全国区でトップニュースになるのは巨人。何処の世界にも「●●の代名詞」というのがあるとすれば、大学野球なら早稲田大学、プロ野球なら巨人(まあ早大は野球に限らないが)。どちらもファンも多ければアンチも多い。アンチ阪神などという言葉は最近まで聞いたことが無いが、アンチ巨人はプロ野球の文化だ。

私が小学生の頃はまだ東京ドームが出来る前の後楽園球場の時代。江川、西本、加藤の三本柱に、野手は三番「安打製造機」篠塚、四番「ゼッコーチョー」中畑、五番「若大将」原。次いでクロマティとかが活躍し始めた頃か。もちろん原はその後4番を務めるが、チャンスに弱かった印象しかない。まあとにもかくにもアンチである筈なのに選手はスラスラと出てくる。
東京ドームに移ってからも巨人の選手には詳しかった。丁度自分も中学から高校生頃、サッカーも人気があったが、スポーツの中心はやっぱり野球。親の影響から巨人が勝つと腹が立ったが、好きな選手もいた。そのように無数の選手を見てきたが、私の中での巨人のヒーローは一人しかいない。桑田真澄である。

PL学園のエース桑田は清原と共に甲子園時代からよく知っている。早稲田を蹴って巨人に入団した当初の桑田はそれほど好きでもなかったが、巨人の18番を背負って投げる姿は、本当のピッチャーとはこういうものか、と思うようにもなった。

彼はピッチャーとしては大きくなく体格的に恵まれた訳でもない。球も驚くような速球を投げる訳でもなかった。しかしその綺麗な投球フォームは、背番号を隠した映像を見たとしても、私は桑田を間違えることはない自信がある。その投球フォームとそこから繰り出されるコントロール抜群のキレのある球は、他のピッチャーとは違った。当時の巨人は斎藤とか槙原も活躍していたが、彼らが投げるとどうにも腹が立つ。しかも勝つ事が多いときている。腹が立つのは勿論人間性どうこうではなく、単に巨人に所属しているからだけどいう理不尽な理由でだ。しかし桑田が投げる時は違った。

怪我をしてからは精彩を欠くようになり、また不動産問題とか借金問題とかの野球以外の所で騒がれることもあったが、それがどうした。力技の球が無くても体格が良く無くても繊細なコントロールと投球術で相手を押さえる。ピッチャーだから「俺が俺が」もあっただろうが、彼のポリシーでもある「バッターに投げたあとは、守りとしてもバッターとしてもピッチャーは9番目の野手」。極端な例えをするとすれば、彼の投球は日本そのものじゃないか。引退するまで桑田は私のヒーローだった。

プロ野球を引退して早稲田大学に行って勉強し、それを基に野球への提言を行っているようだ。先日朝日新聞の高校野球の特集記事で桑田のインタビューが載っていたが、野球とその指導に対する合理的な指摘はさすがと思わせるような内容だった。
将来プロ野球の監督をするのかどうかは分からないが、彼には監督というよりコーチとして次の巨人のエースを育てて欲しいと思う。

東京読売巨人軍なのか読売ジャイアンツなのか正式名称が未だに分からない。でもそんなことはどうでもいい。

巨人が弱くてはプロ野球はつまらない。弱い巨人が負け続けても面白くない。強いから負けた時が楽しめるのだ。アンチ巨人の為にも常に巨人は強くなければいけない。だからこそ、巨人軍は永久に不滅なのである。

ある夏の日の東京ドーム

ある夏の日の東京ドーム

●18系統 担当:巣鴨車庫
志村坂上~板橋区役所前~新庚申塚~巣鴨駅前~白山上~春日町(文京区役所前)~水道橋~神保町~一ツ橋~神田橋
都電最長路線で都心から板橋区までを結びました。白山通りから中山道をひた走りましたが、巣鴨から先の中山道部分が早くに廃止されたのに伴って、41系統と共に昭和41年に消えてしまいました。ほぼ同じ区間を都営地下鉄三田線が走ります。

Originally, written on August 07, 2010