第二十七話
鬼子母神堂の駄菓子屋~32系統の風景

私が住む雑司が谷の住宅街に、ひょっこりと現れる林は雑司が谷鬼子母神。この界隈、鬼子母神以外にも大鳥神社とか少し離れたところにある雑司が谷墓地とか、学習院大学とか緑が点在する地域。車が行き交う明治通りから一歩入った鬼子母神は、通りの喧騒を離れ落ち着いた、けれどある意味日本の何処にでもあるお堂である。

正式な名称は「法明寺鬼子母神堂」という。このお堂に端を発する参道は、都電の線路を過ぎて目白通りを渡ると、宿坂で一気に早稲田方面に駆け下る。下った先の神田川(玉川上水)を渡る橋が面影橋。第一回で書いたように面影橋は大田道灌の話にも出てくるので、今は住宅街に細く伸びるこの道も元々は非常に歴史ある道。そりゃそうだ。今の鬼子母神堂の鎮座は16世紀半ば過ぎというのだから。

この地域が東京区内に組み込まれたのは昭和の初めあたり。山手線の内側でも同時期に区内となった渋谷あたりが現在は大繁華街となっているのにも比べ、この辺りは明治通り沿いを除けば高いビルもなく古い家が集まる何処にでもある住宅街で、そこの「鎮守の守」のような感じで鬼子母神堂がある。かつては野原に家がポツリポツリとあり、何処からでも見通せるような鬼子母神の林であったに違いない。ここに郊外電車=後の都電が通ったのは大正の終わりであるが、ビルの街に発展しなくて済んだのは、都心中心部から見て「外れも外れ」の地域だったからだろう。近所の雑司が谷墓地や、東京拘置所跡(巣鴨プリズン。現サンシャインシティ)などの存在は、地域の成り立ちを示しているように思える。

このように鬼子母神堂は歴史あるお堂だが、それに寄り添うように境内には一軒の駄菓子屋がある。「上川口屋」という屋号で、創業はなんと1718年。享保年間というから徳川吉宗の時代よりここで営業しており、現存する都内最古の駄菓子屋だそう。現在の建物は、さすがに江戸や明治の頃のものではなく、歴史を持つ店と言っても伝統を売りにした格式ばった店でもなく、普通の駄菓子屋である。鬼子母神堂は、例えば庚申塚から続くとげぬき地蔵と違って参拝客がわんさかいる訳ではない静かなお堂で、祭りの時期を除けば普段は近隣の人達しか来ないような所だからこの駄菓子屋が繁盛しているようにも思えないのだが、夕方とかだと近所の子供達が境内で遊んでいるような光景もあるので、固定客がいるのかもしれない。おじいさんとおばあさんの二人でやっているらしく、雨の日は休み。休日になると観光客のような人達が「懐かしい~」とか言ってお菓子を買っていくようなこともあるけれど、何処まで足しになっているか分からない。その昔は「ゆず飴」とかいう名物もあったようだが、製造する職人がいなくなってしまったとかで、今では目にすることが出来ないのは残念だ。

この界隈、東京でありながら何処かひなびた雰囲気を持っている。それは山手でも下町でもない、どちらかと言えば野原が住宅街になったという感じのもので、山手線内側にあり、池袋の喧噪をすぐ後ろに抱えながらも別世界がここにある。そんなこともあってか、かつて手塚治虫もここの居を構えたのだろうが、多分池袋にいる多くの人々はすぐそばにこんな長閑な住宅街があるとは気付きもしないだろう。そんな町にひっそりとたたずむ鬼子母神堂は、大都会に忘れさられた「のどかな東京」を今に伝えるようだ。

鬼子母神堂の駄菓子屋

歴史ある駄菓子屋と平成の少年

●32系統 担当:荒川車庫
荒川車庫前~王子駅前~飛鳥山~庚申塚~大塚駅前~東池袋四丁目~鬼子母神前~早稲田
都電荒川線の西側区間です。そもそもは王子電気軌道という私営電車で開通しました。専用軌道が多く、車の交通に支障をきたさないという理由で廃止を免れ、新宿区~豊島区~北区~荒川区の足として今に至ります。
雑司が谷に住む私にはまさに地元の電車。鬼子母神前電停から都電雑司ヶ谷に至る空が抜ける区間で見られるサンシャインシティと都電の対比は見事!ずっと走り続けてほしい。

Originally, written on September 04, 2010

投稿者:

Mr.Problem

しがない制作屋です。 活動範囲:Web Producer / Director / html全般 / CSS全般 / WordPress / ガンダム / ドラクエなど..。企業内のWeb担当として活動。神奈川の海沿い生まれ。京都、大阪、神戸と流れて、今は東京在住です。