第四十二話
東京言葉の老婦人〜16系統の風景

大塚から本所へ向かうバスの車内、本郷で私の後ろに二人組の老婦人が席を取った。お二人は元々は知り合いではないようで、最初は荷物が当たったかどうかが話のきっかけだったようだ。

お二人共にとても綺麗な東京言葉を話す人だった。いわゆる山手言葉である。その落ち着いた声の調子がより雰囲気をいいものにさせたのかもしれない。

話に聞き耳を立てる程に野暮ではないが、バスの車内でもあり、すぐ後ろの席ならば話の中身も聞こえてくる。お一人は何かの定例文化会に参加してきた後らしく、最近の気候と共にとりとめない話をしている。お住まいは錦糸町の方らしいが、このバスの系統がまだ都電で運行されていた頃からの参加のようなので、相当な昔から行き来をしていることになる。大空襲時の疎開の話とかもされてたから、御年80歳を超えていたりもするのだろうか。とにかく綺麗な東京語を話されているのがとても印象的だった。

土地を訪れて風景を感じるのは、目に入る物からばかりではない。そこに住む人の声からその風景を感じることも多いと思う。
日本全国、津々浦々色々な言葉があるが、景色や名所を見たり舌鼓をうつと同時に、土地の人の言葉から異郷に居る実感を得ることも多い。普段耳にするのとは異なるイントネーション、単語、言い回し等々。その言葉の向こうにその土地の歴史や気候、文化も感じることもある。
そのような意味では、言葉も立派なその土地の景色と言って良いのではないだろうか。

話す方の素性に気品があるのかこの時代の言葉が皆そうだったのかは分からないが、東京の何気ない場所において、本当に美しい言葉を喋る老境の女性に会うことがある。男性から耳にすることが無いのは、生物学的な何かがあるのやもとも思う。今の時代にこのような話し言葉に出会うことは殆どなく、昔の小説の中くらいでしか触れることはないので一層印象的に感じるのかもしれない。ある一定以上の階級であれば現代とは比べ物にならないくらいに所作振る舞いを叩き込まれているようで、少なくとも女学校出の関係者が身内にいるようならば、それなりの言葉遣いを教えられた方も多かったことだろう。
ふと、以前に御徒町駅ガード下の食堂でも女主人が同様の山手言葉で話をしているのを思い出した。その時も綺麗な言葉を喋るなあと思ったものだ。この方も確か昭和12年だか13年だかの生まれだと話されていた。

そういえば、書き言葉であったが学生時代の友人で同じような言葉遣いを使う人がいた。東京出身者ではなかったが、およそ同時代の女性が使う言葉ではなく、例えば本や歌の世界で触れるような言葉、「あなた」や「〜だわ」とか、「〜なのね」などの言い回しで文章を書いてくる。もちろん普段聞いたり読んだりすることがない言葉であり、果たして自分自身が「あなた」とか言われるような価値のある人間なのか、などと意味不明なことを考えてみたりもした。
とにかく綺麗な日本語で、一つ間違えれば時代外れの嫌味な言い方になりかねない言葉をさらりと使う。そのような言い回しを自然に受け入れられたことを考えると、ひょっとしたら言葉の後ろに彼女の人柄も見たのかもしれない。

バスは渋滞に引っかかることも無く上野広小路、蔵前を過ぎ、隅田川を渡る厩橋にかかるところで車窓左側に東京スカイツリーを見た。この巨大な建物と厩橋の古い姿と後方席の女性の言葉に気分を良くしながら、下町のバス停で降りた。

梅雨前の不忍池と弁天堂、スカイツリー

梅雨前の不忍池〜スカイツリーが向こうに見える

●16系統 担当:大塚車庫
大塚駅前~大塚三丁目~伝通院前~文京区役所前~本郷三丁目~上野広小路~厩橋~石原三丁目~錦糸町駅前
同じルートを走る都02系統の都バスは、何処で見ても大抵人が乗っている繁盛系統です。広小路から一気に大塚駅まで連れて行ってくれるので、疲れた仕事帰りに一人でボーッとしたい時、好んで乗っています。