第七話
『それから』の坂道~39系統の風景

「江戸川の縁へ出た時、暗い風が微かに吹いた。黒い桜の葉が少し動いた。橋の上に立って、欄干から下を見下ろしていたものが二人あった。金剛寺坂では誰にも逢わなかった。岩崎家の高い石垣が左右から細い坂を塞いでいた」~『それから』

何の気無しに雑司が谷から小石川の方に歩いてみた。

家から東に目白通りを進み、椿山荘から目白坂を降りると江戸川橋。神田川北側の住宅街が音羽や小日向という地域で、とても落ち着いた地域である。

小日向界隈から小石川へは、西から鷺坂、大日坂、服部坂、横町坂、薬罐坂、荒木坂、蛙坂、切支丹坂、今井坂などの坂が続き、小日向と小石川の境目辺りに金剛寺坂がある。金剛寺坂のすぐ際は永井荷風の生まれ育った家があったところ。この小日向~小石川は、麻布、広尾辺りとはまた違った、東京の中でも有数の住宅街と言っていいだろう。

漱石はこの辺りに住んでいたこともあり、小説にも所々この小石川界隈が出てくる。伝通院近辺に「それから」の平岡夫妻が住んでいた所として描写されており、神楽坂に住む主人公はこの金剛寺坂を上がって平岡家へ向かう旨が書かれている。「こころ」でも先生がかつて小石川に住んでいたことを記しているし、他にも切支丹坂や庚申坂等の描写も出てきて、この界隈は当時の漱石にとって身近であったことが伝わってくるのだ。「三四郎」や「吾輩は猫である」等のお陰か、本郷、弥生、団子坂界隈のイメージも強いけれど、私の持つ漱石とつながる土地の風景は、どちらかというとこの小石川界隈か、幼年期と晩年を過ごした早稲田界隈となる。

東京=坂のイメージは、この小石川や小日向辺りでは決して裏切ることはない。音羽から神田川沿いに続く谷。西側は目白台、牛込の方へ丘となり、東側の丘陵地帯が小日向とか小石川。小石川から北はそのまま大塚の方へ丘のまま続く。春日通りを富坂で一気に下ると春日の交差点。この辺りは白山通りに沿った谷となり、東がすぐ本郷台地なので、菊坂や真砂坂でまた駆け上がることになる。我が家から上野界隈へは一直線で行けばそれ程遠くないが、自転車の場合これらの坂の上り下がりが窮屈なので、畢竟神田川沿いに九段下まで出て神保町、駿河台方面から万世橋、次いで中央通りを上がって上野へ、ということになるのだ。動坂下から団子坂辺りへなら気合いを入れて不忍通りを上がり下がりするけれど、最低2回は大きな登りを迎えるので、楽な道筋ではない。

金剛寺坂、安藤坂、大曲など、この辺りの地名は明治の頃から変わっていないと見え、漱石の話にもそのままである。ふと自分が落ち着きたい時、何の気無しにこの小日向~小石川界隈を歩いてみたくなる。華やかな東京とは無縁の落ち着いた住宅街だが、飾り気無しの顔を見るようで何となく楽しい。

金剛寺坂の母子

金剛寺坂の母子

●39系統 担当:早稲田車庫
早稲田~江戸川橋~大曲~伝通院前~文京区役所前~本郷三丁目~上野広小路~御徒町駅前~三筋二丁目~厩橋
江戸川橋から本郷三丁目近辺には文筆家に由縁のある場所がたくさんあります。古い住宅街が多く、一般的なイメージとは異なる東京の顔を散策することが出来ます。

Originally, written on May 08, 2010