第八十二話
震災の記事〜23系統の風景

9月1日は「防災の日」。今年は例年にも増して、関連の記事が多いように見える。

関東大震災発生100年に絡み、関東の各地では追悼の式であったり、関連して発生した事件の検証や慰霊を行う集会が開かれているようだ。東京においても、震災に絡んで大惨事が起きた本所の旧陸軍被服廠跡 – 関東大震災の被害というと、かつては必ず語られる場所であった - を筆頭に各所で集会が実施されている。

「地震があって100年だから」というのは何か違うような気もするが、関連の記事が各所で書かれることは、改めて我々が災害の多い国に生きているということを思い起こすきっかけとしては悪いことではない。

私は関東大震災の大被害に遭った地域に生まれ育ったため、子供の頃から地震に関する教育は叩き込まれていたらしい。「大地震60年説」という言葉があり、関東大震災同等レベルの東海地震がいつ来てもおかしくないということで、防災頭巾を被っての避難訓練はもちろんのこと、被害を小さくするための家庭の対応案内、被害想定の地図の配布などが地域で行われていた。当時は実際に関東大震災を経験した人が周囲に存命であったし、私の祖父母も経験をしていたことから、大震災がどれだけ大変だったかが当事者の声として聞く機会も多く、身近な危険として刷り込まれていた。

大学に入って関西に住むことになった時のこと。実家でやっていたように本棚を壁からワイヤーで固定していて地震対策としていたのだが、関西の友人はそのような止め方を不思議そうに見ていた。こちらとしては寝ている間に本棚が倒れてきては大変なので当然のこととしていたのだけれど、必要な準備とは思われなかったらしい。けれどその後、阪神大震災が来た時に住んでいた地域でも被害を受けた家屋があったが、築年数が相当に古かった自分の部屋は一切の被害を受けずに済んだ。結果として壁に本棚をつなぐような準備によって身を守ることができたのだと思っている。
今に至っても背の高い家具を揃えようとしないのはなんとなく地震を考えてしまうためであり、そんな習性もあってか東日本大震災でも部屋が崩れることはなかった。どうやら子供の頃の地域による私へのしつこいくらいの震災教育は間違っていなかったのだろう。

大地震というととかく阪神大震災や東日本大震災が語られる機会が多いけれども – その被害規模を考えればそのようになるのだろうが – 言うまでもなく大震度の地震はそれ以外にも多く発生している。「大地震60年説」の60年は首都圏においてはとっくの昔に過ぎており、私の子供の時以上にいつ来てもおかしくない時代になった。けれどここ30年程のの大震災を思ったとしても、普段の生活に於いて震災に対する情報の周知、訓練がリアル感を持ってなされているようには思えないが、関東大震災100年ということによるものか、いつにも増して関東大震災の記事が多く見られ、考えを致す機会が多いように思える今年の防災の日である。

せっかくの情報に触れやすい機会だ。
必ず来ると言われている震災に対し、今一度身の回りの備えについてじっくりと考えてみたい。

●23系統 担当:柳島車庫
福神橋~本所吾妻橋〜東両国緑町〜清澄町〜門前仲町〜月島
本所から隅田川の東岸を走り、両国を通って深川を結ぶ系統です。街の主要移動手段たる都電網の最末期まで走り続けました。業平橋に東京スカイツリーこそ建つものの殆どの経路となる清澄通りはそれほど高い建物もなく、跡を継いだ都バス門33系統が一昔前の街の風景を結びます。