第七十二話
奥の細道〜21系統の風景

大阪出張の帰り、東京に戻る手段に思いを巡らした。

金曜で翌日は休み。心斎橋で友人と飲む約束をし、一泊して翌土曜日に戻ることにしていた。
東に向かうルートはいくつかあるが、京都に出るのは工夫がないと思われた。住んでいた場所という感覚が強く、改めて足を踏み入れるような気持ちは消え失せてしまっている。
寺社仏閣であれば京都よりも奈良の方が自分の好みである。東大寺あたりは正月に訪れたがそれ以外の場所は足が遠くなって久しい。それであればとルートの途上にある法隆寺を久しぶりに訪れて奈良から伊賀を抜け、名古屋から新幹線に乗ることに決めて翌朝を待った。

法隆寺はガラガラで人がおらず、じっくりと境内、寺宝を鑑賞することが出来た。「柿食えば〜」の子規の舞台でもあるが、今は真夏のど真ん中で、季節を誤ったかとも思った。とは言うものの、刺すような暑さはなく、境内と薄暗い建物を通り抜ける風が気持ちよかった。夏とは本来このような陽気ではなかったか、と気分を良くして次の道に向かった。

奈良で乗り継いだ関西本線をさらに加茂で乗り換え、笠置越えの鉄路を東に向かった。木津川の流れを抜けて伊賀盆地に入ると、空が一層高くなるように感じた。静かな車内では時間の流れも遅くなる。少し眠気が襲った頃に、伊賀上野の駅に滑り込んだ。駅舎は前世紀の木造建築で国鉄亜幹線の典型的な平屋建てだった。静かな構内は、蒸気機関車が茶色い客車を引いて入ってきそうな雰囲気を残していた。

駅に向いた観光看板には忍者云々との期待通りの表現と共に、「松尾芭蕉生誕の地」をアピールしていた。芭蕉が伊賀の人なのは知っていたが、忍者の里のイメージで駅に着くまで忘れていた。
案内では29歳までこの地におり、その後江戸に出たということだった。その後の生涯が旅の連続であることや伊賀の出身でもあるから俳人に止まらないとの解釈もあるようだが、実際には素直に句を読む人だったらしい。ただその割には案外に歳を経るまでこの地にいたものだとも思う。

せっかく芭蕉の故郷を通ったことだし、また子規と法隆寺のお陰で俳句の頭になってもいたので、東京に戻った翌日、江戸での芭蕉の由縁を辿ってみることにした。

江戸では日本橋界隈、次いで深川の新大橋近くに居を定めた。ここを拠点にして俳人と交わると共に、その後に続く何回かの各地の旅行へ旅立つことになった。その活動は現在でも旅の記録として残っているが、最も有名なところでは「奥の細道」であろう。一旦北に向かい、奥州から日本海側に出て越後、北陸と旅をする、よく知られた紀行である。芭蕉の作として多くの人が知っている句はこの旅の途上で読まれたものだ。「夏草や〜」とか「五月雨を〜」とか「静けさや〜」とかその辺りか。

江東区は芭蕉の故居を定め、また記念館を設けて芭蕉ゆかりの地として売り出しており、清澄公園から隅田川に至る界隈、萬年橋北側の芭蕉神社と芭蕉記念館を結んで「芭蕉の道」として静かにアピールしている。実際「奥の細道」では清澄公園南側の「採茶庵」辺りが出発の地であり、そこから隅田川を上がって千住大橋で船を降り、奥州・日光街道を北に向かった。
芭蕉といえば一般的には「奥の細道」。このことから「芭蕉出立の地」として千住大橋に碑を建ててアピールをするのが足立区。今と違って船運が盛んだった江戸の頃は、江戸府内から歩いていくよりかは場所によっては川を上がった方が楽である。

千住大橋で陸に上がって日光街道を進むとすぐに千住宿。江戸四宿の一つで日本橋を出てみちのく方面での最初の宿場街である。他の三宿と異なり、大きな川を越えてからたどり着くから、「江戸を出た」感は大きかっただろう。

※他の三宿とは、東海道の品川、甲州街道の内藤新宿、中山道の板橋。品川、板橋、千住は何となく雰囲気が残るが内藤新宿は全く面影がない。わずかに新宿伊勢丹交差点近くにある追分団子の和菓子屋くらいか。

千住大橋は隅田川最古の橋で、江戸開府から間もなくかけられた。勿論芭蕉の旅する頃にも立派な橋が存在した。20世紀の初めまで木造で存在しており、今でも川を漁ると木の欄干が出てくるらしい。
以後大正まで木造の橋で通したが、関東大震災の復興事業として現在の見事な鉄骨造りの道路橋に立て替えられた。橋に掲げられる橋名は「大橋」。深川芭蕉庵近くの新大橋は、この「大橋」に対する「新」である。昭和の味気ない新橋が旧橋の隣にかかるが、旧橋を立て替えずに片方向の道路として残したのは英断だった思う。

この千住大橋旧橋の袂に、「芭蕉出立の地」の碑が建てられ、「奥の細道ここに始まる」を静かにアピールしている。隅田川の河岸にもご丁寧に芭蕉の姿が描かれていたり、千住宿の入り口には芭蕉の像が立っているなど、さながら街一番の偉人である。

居住の地を出るのが出発か、歩き始めたのが出発か。いずれでも結構であるが、深川も千住も東京にあって名跡として「おらが街」をアピールするのがなんとなく面白い。

法隆寺とは打って変わって暑さに打ちのめされる中、日光街道の旧道を通じて千住旧宿を抜けた。一句詠んでみる風流も文才も無くまた余裕も持てず、北千住駅の現代の茶店 – コーヒースタンドに駆け込んだのである。

千住大橋〜矢立初めの地

千住大橋〜矢立初めの地

●21系統 担当:三ノ輪車庫
千住四丁目~千住大橋〜三ノ輪橋〜根岸四丁目〜上野駅前~岩本町〜水天宮前
北千住から鶯谷駅、上野駅、秋葉原を通って人形町方面に向かいます。三ノ輪橋から南は概ね地下鉄日比谷線がトレースします。
千住が示す地域は隅田川を挟んで南北に広いですが、千住宿の名残である北千住は足立区、三ノ輪橋や泪橋あたりの南千住は荒川区。足立区に入る唯一の系統でした。