大学、社会人を通じて幾人かの見知った人がいるが、そのうちでも会う機会が多かったのが「わかぼう」である。
駅というのが出会いと別れの場所というのならば、記憶を思い起こす場所としての顔を持っていると言っても言い過ぎではないだろう。何故なら – 特別な人の出迎えや見送りだけでなく普段の生活の中に於いても – その場面では必ず人との関わりが起こるからであり、邂逅の場所という側面がついて回るからだ。
人の一生とは出会いと別れだ。その意味を端的に表現するのが駅という場なのだと思う。人によっては空港や港、バスターミナルという場合もあろうけど、この国に住む多くの人にとっては駅が最も身近な存在として、そのような印象的な場と感じるのではないだろうか。
神奈川県に生まれ育ち、関西で学生時代と社会人の駆け出しの頃を過ごした私には、東京駅は特別な場所だ。このことは当ブログ内で前に書いた。品川駅は異なる存在である。新幹線の駅でも後付けであり、また関西を結んでいた急行列車は通過した。出発点にはなり得ない。一方東京駅は東京とそれまでの居住地を結びつける駅であり、私の過去の生活 – 自分の半生に向けて出発する場所である。見慣れた丸の内の駅舎を仰ぐ時、特にそれが疲れた時や苦しい時である場合、地元のことや関西時代のことが思い浮かんでくる。別に意識している訳ではないのだが、例えば見知った人であったりが元気でいるだろうかと思い起こすのは、大抵東京駅に立つ時だ。それはこの駅が、地元や過去の場所に鉄路をつなぐ起点となる場所であるからに他ならないためだと思う。
今日、10月31日、所用で丸の内を歩いた。行幸通りから正面に歩くと煉瓦作りの駅舎が迫ってくる。壁面を彩るオレンジ色が美しい。そういえばと、かつての関西の人をふと思い出した。
わかぼう
どうしてこのように呼ばれるようになったのか、誰が言い出したのかは知らない。最初は私だったような気もするし、他の友人だったような気もする。「ぼう」とつくことからわかるように、小柄な女性だ。
お互いの会社が川を挟んで向かいにあったこともあり、非常に近かったので仕事が終わった後はたまにご飯を食べに行った。あちらは大抵定時に終わるので私の会社の前で待っているのだが、表情が整っていたこともあるのだろう、「可愛い女性がよく立っている」とのことで、私の同僚や先輩の狭い間では当時ちょっとした有名人だった。
音楽の趣味は大抵の人とは違っていて、少し前の時代の洋楽とかを聴いていたようだ。日本の歌手でも流行の歌を好んで聴くようではなかった。一度車で何故か私が中島みゆきをかけたことがあったが(20代の女性とドライブをしていてこのチョイスは無いと思うが、そんなことを気にするような相手ではなかった)、その時も彼女は逆に聴き込むようだったから、同世代の人たちと比べたら変わっていると言えば変わっていた。
そもそも大学時代、私が長期旅行で新学期の授業に出られないこともあったので、休暇中の宿題など代わりに提出を依頼したりもした。
超がつくくらいの箱入りだからか、時にとてつもなく頑固な面もあったが、元来がおっとりした性格のせいか、またはあまり気に病まない性格なのか、うるさいことも言わず自分の依頼をいつも引き受けてくれていた。たまにやかましい事があるとすれば、私のメールが漢字が多くて疲れるだとか私がマメじゃ無さ過ぎるとかそんなこと。言われてみればそんな気もしたが、結局最後まで直すことはできなかった。
ただそんな私も、海外に旅行している時はよく現地から絵ハガキを送った。母が希望していたので実家にはどの街からも送ったけれど、その次に私の手紙が届いている人物であることは間違いない。知り合いに無事を知らせる意味で始めたことも、街を移る度に書いていれば習慣のようになってくる。乱筆である意識はあったので読んでいることは期待していなかったが、興味があるのか無いのかは判らないけれど、迷惑がるような言葉を聞いたことは無かった。
そんなこんなで三十代を少し過ぎたくらいまではやり取りも続いた。ただ何となくで時間が過ぎ、日常が続いた。その間にあちらは結婚したが、私が東京に出てくる時に友人が開いてくれた送別会には来てくれた
わかぼうの本名の音は「ワカ」。名前の由来は、31日生まれだから。
31は三十一文字(みそひと文字)につながる。三十一文字とは短歌、つまり和歌のこと。で、「歌」を別の漢字にかえて名前としたのだ。
今日10月31日はわかぼうの誕生日である。
故郷と関西に続く丸の内駅前広場
●31系統 担当:三ノ輪車庫
三ノ輪橋~千束二丁目〜菊屋橋〜蔵前~小伝馬町〜新常盤橋~東京駅丸の内北口〜都庁前
日光街道から合羽橋道具街、旧日本橋区の町人街、日本銀行の裏を通って東京駅に抜ける系統です。合羽橋界隈は都バスが走らなくなったルートですが、日本最大の道具街として今でも多くの人を集めています。