第四十四話
居留地の碑〜9系統の風景

東京は国際都市とか言われるが、これが「歴史的な意味合いも」となると、恐らくその椅子は横浜に譲ることになる。日本史を離れたとしても、例えば横浜を訪れる観光客は今でも山手の丘や中華街くらいは足を踏み入れることが多いだろうし、やれホテルニューグランドだ、馬車道だ、日本大通り辺りの洋館だというのは、欧米の風と切っても切り離せない。大桟橋は今も昔も日本郵船の客船の本拠であり、白地に赤二本線の旗印は明治の頃から現代に至るまで横浜の港から消えたことはなく、外に向けての日本の顔は、今でも横浜の海風と同じくして吹いているのである。
これは多分にしてイメージ戦略によるところもあるものの、港を外しても例えば本牧の米軍キャンプから通ずるようなハイカラなイメージは今でも残っており、「横浜と外国」は横浜が横浜たる重要なファクターであるのは間違いだろう。

外国航路が東京までは来なかったこともあり、首都の玄関は横浜に譲ったが、外国人居留地は明治の時代に東京にも設けられたと言えば、案外に聞こえるのではないだろうか。文明開花と言うけれども外国絡みで東京の地域が紹介されることは殆どなく、東京を語る上であまり世に知られたテーマとは言い難い。
が、よく考えれば政治の中心池に外国人がいないのは不思議であって、それほど規模としては大きくないながらも居留地が築地から隅田川に至る地に造られた。その歴史を殊更に大きく主張するのではなくイメージ的にも横浜に外国を譲ったこともあって、この築地居留地の話が例えば東京の情報サイトはもちろんのこと、「東京人」などの少しディープなカルチャー誌でも、紹介されることは多くない。

築地や新富町の新大橋通りから東側に入ると、その中心に聳え立つのは聖路加病院と聖路加国際大学である。ここを中心とした明石町と言われる地域が、かつての築地居留地。そんなに広い町では無いが、外国人の街として歴史の中に存在した。当時を示す外国的なものは昭和の初めに建てられたカトリック築地教会の石像建築物と国際大の木造洋館くらいだが、歴史的な跡ということでは、今でも広く知られた大学の「発祥碑」がいくつか散見される。青山学院、明治学院、女子学院等のミッション系大学発祥碑がそれらで、元々この地に居住していた外国人が開いた大学の歴史がこの地にある。
またこれらの大学以外にもこの地に起源を持つのが慶應義塾だ。福沢諭吉が最初に塾を構えたのがこのエリア。幕末の頃に外国に渡った福沢だが、その前、勝海舟に呼ばれて江戸に出府し蘭学塾(次いで英学塾)を開いたのがこの地だった。それは築地居留地が造られる以前の開塾であったが、その後の歴史を考えるとこの地で洋学を教えていたのが何となく因縁深い。

居留地の主はアメリカだったようで、居留地にあったアメリカ公使館が赤坂に移転する際に造った記念碑が聖路加の洋館前に移されて置いてある。碑に掘られている星の数は13個。移転の19世紀末期では、現在よりも独立13州への意識が強かったようだ。

その少し北側には芥川龍之介生誕の地を示す案内が立つ。芥川は両国との関係が知られるが、元々は居留地際が出生のルーツである。彼が生まれた当時、この町内に牛の牧場があったそうだが、居留地と牧場の関係や時代との絡みがよく分からない。一時、東京のど真ん中で牛が飼育されていた時期があったということだけれども、銀座の町人街からもそれほど遠くない地域で乳業が営まれていたというのも不思議な話だ。

最後にもう一つ。
丁度聖路加国際大の南西の角、旧築地川暁橋跡側に旧藩邸跡を示す碑が建っている。藩邸は播州赤穂藩のもの。邸宅の最後の主人は浅野内匠頭。忠臣蔵は殿中松之大廊下を経てこの地から始まった。

今はどうということもない町内であるけれども、歩いてみるとそれぞれの歴史を背負った奥深い地域であることが見えてくる。観光客が訪れる地域ではないが、なんとも奥深い地域であると言えるだろう。

居留地跡に佇む築地教会

居留地跡に佇む築地教会

●9系統 担当:青山車庫
渋谷駅前~青山一丁目~三宅坂~日比谷公園前~銀座四丁目~築地~茅場町~浜町中ノ橋
オリンピックのお陰で青山一丁目〜三宅坂の区間が廃止となってからは、六本木、神谷町、霞ヶ関を経由して日比谷公園を通るルートに経路を変更しました。恐らく銀座を挟んで全く別の雰囲気であったろうと思われます。
青山側の写真はよく見るのですが、京橋・日本橋区側を走る写真はあまり見ません。イメージ的には「山手の路線」でしょうか。