第五十六話
討ち入りの広場〜29系統の風景

東京に出てきてすぐの頃だったと思う。

高輪の方で赤穂浪士の足跡を辿るツアーがあったので参加してみた。ボランティアガイドが、泉岳寺とか大石内蔵助が討ち入り後のお預けとなった肥後熊本藩の細川下屋敷跡とかを廻るような内容で、「ここで腹を切ったんです」などをその歴史と共に案内をしてもらえた。

このようなボランティアガイドによるツアーは東京のあちこちで行われている。そのレベルも色々あるようだけれども、忠臣蔵絡みなら自分も案内できるのではないかと思い、どんなレベルのことを喋るのかと興味があって参加してみたのだった。自分自身それなりに自信があったのだが、高校教師とかいうガイドの方は造形が深く、どこかで講演できるのではというくらいに知識をお持ちで、私が太刀打ちができるものではなくて感心しきりで話を聞くと共に、自分如きのレベルでガイドになって人前で話そうなどと考えるのは恥をかくだけだと思い直すことになった。

赤穂の討ち入りは元禄15年の12月14日。かつてはこの時期、テレビで忠臣蔵がドラマでやったものだが、最近は全くやらなくなった。時代劇自体が無いのにわざわざお金をかけてまで役者を集めてやるまでも無いということか。ストーリーが分かっていても観てしまうのは日本人の性だと思っていたが、自分の周りで討ち入りの話を今まで聞いたことがないから、実は興味があったのは自分だけだという気がしなくもない。曽祖父は講談が好きだったらしく、母は子供の頃によく一緒に忠臣蔵を聞きに行かされていたのがつまらなくて嫌だった、とボヤいていたが、それは母が間違っているとずっと思っていた。

関西にいる時は、その足跡を – 史実であろうとなかろうと、だが – 折に触れて巡っていた。赤穂の本城は言わずもがな、山科、円山会議、箕面の萱野とか、話に出てくる地を訪れて悦に入っていた。
そんなだから東京に出てきて史跡や場面を巡るのは当然のこと。高輪泉岳寺で墓に手を合わせたり、南部坂で瑤泉院への大石の大嘘を思い返したり、皇居東御苑で松の廊下跡に立ってみたり、などと、舞台を追ってあちこち歩くのが楽しくて仕方がない。
勿論史実には無く忠臣蔵独自の場面もあるが、それはそれで良い。日本最大の時代劇を自分の足で辿れることが嬉しいのだ。

旧本所松坂町の吉良屋敷は、今は普通の街になってしまってその面影はないが、正門跡とかの立て札があったり、屋敷の極々一部がちょっとした広場「本所松坂町公園」になっていて、自分のような人間を迎えてくれる。
往時の屋敷は遥かに広く、公園のサイズが86分の1とかとのことなので、市中の敷地としては相当だったと思う。元は呉服橋辺りにあった宅を刃傷沙汰が起きてのち、隅田川の向こうに追いやられてしまったようだが、そこは高家の屋敷、場所は当時の外れでも居は立派だったと言うことか。

12月14日が近づいたので久々に公園に訪れてみたが、やはり見学に来る人が途切れない。
園内の由縁には四十七士の名が書かれているのと共に、吉良側で戦った人々 – 小林平八郎とか清水一学とかの名場面を飾った名も刻まれており、また上野介の坐像があって国許では名君として通っていますみたいなことが書かれている。このことは盛んに主張される話で、忠臣蔵のお陰で悪役にされているが、三河のお国では尊崇を持たれる人物なのだ。
公園に訪れる人は年配の方が多いのは当然として、公園の云われを読んでふんふん唸っている。興味がある人しか来ないような場所ではあるが、当時を偲ぶような場所として維持されているのは宜しいことだろう。

なんとなく赤穂にも吉良にも悪い気にさせないような配慮を感じるが、そこは色々な事情があってのこと。単純に忠臣蔵のストーリーを辿るだけであったとしても、訪れてみたい場所ではある。

ちなみに12月14日は大雪だった。12月に東京に雪が降るのは珍しく、雪の夜を想像するのは難しい。
当たり前だ。旧暦12月14日なら新暦の大体1月後半。この時期なら東京でも雪が降る。そんなことを父に話していたら「つまらない奴だ」と鼻で笑われた。

旧本所松坂町の名跡

旧本所松坂町の名跡

●29系統 担当:境川車庫
葛西橋~境川〜水神森〜錦糸堀〜江東橋~両国~須田町
荒川から城東地区を突っ切って神田へ向かう系統です。現在江東区は移動の主力を都バスが担う地域ですが、この系統も街中の交通機関として都電が担っていた最後の時期まで走り続けました。