第十三話
聖堂の八端十字~37系統の風景

中央線を神田の方から乗ってくると、カーブを過ぎて御茶の水駅に入る手前で左側に大きなドームが目に入る。ニコライ堂の聖堂だ。

ニコライ堂。正式名称は東京復活大聖堂教会。

日本でキリスト教と言って頭に浮かぶのは大抵の場合ローマカトリックのそれであるけれど、ここニコライ堂は東方教会の総本山。東方教会とはローマから見た東であるからだが、彼ら自身は「正教会」を名乗る。
1054年に教会分裂が起こった際、コンスタンティノープルの総主教が中心となって引き継いだ教会が正教会となるが、それがロシアを経て日本に伝えられたのが19世紀半ば。正教会は各国ごとにまとまりを築く為、日本に於ける正教会は「日本正教会」となって総本山を東京に置き、その中心が日本ハリストス正教会復活聖堂、つまりニコライ堂となる。

教義は古来のキリスト教を正当に継承するとし、よって「正」教会と称するのだが、実際教会内部の造りや祈り方を見ても、カトリックのそれとは異なっている。
その第一に十字架に磔となったイエスの像が無い。カトリックなら何処でも教会の中心にこの像があるが、正教会には見られない。代わりに見られるのがイエスやマリアを描いたイコンだ。

かつて各国を旅行していた頃、ヨーロッパに於いては時間があるとよく教会に行った。私は無宗教だが、その代わりに生活に深く根付く宗教に非常に興味を持っていたので、教会を見る事はその地の人々の生活を見る事のように思えたからだ。
ヨーロッパの旅とは本質的には教会を巡る旅と言っても良い。勿論美しい街並や自然は豊富にあるし、絵画や彫刻の鑑賞も楽しみの一つであるけれど、それらはほんの一部でしかなく、街から街へ移動する中で、またその旅が長く深く周るものである程、「ヨーロッパ旅行」とは生活に密着した「キリスト教の世界を巡るもの」ということに気付いてゆく。
その生活への宗教密着度は都市よりも地方、西ヨーロッパよりも東ヨーロッパの方が深いように見えた。20世紀に共産主義国家が割拠した東ヨーロッパだが、宗教を否定した共産圏の方が宗教が民衆のレベルまで深く根付いたように見えたのが興味深かった。そしてそれらは基本的に正教会の国々だったのである。

尖塔をもつ教会ではなくドーム型の教会であることは、イスタンブールのアヤソフィア聖堂と概念は同じ。アヤソフィアはオスマン朝時代にモスクへ改築されたが、トルコに征服されるまではコンスタンティノープル総主教のひざ元だった。

ニコライ堂の古い写真を見ると、小川町方向に高い建物は無く太平洋戦争の頃までは高台にそびえる立派な聖堂に見えたことだろうと想像出来る。今でこそ周りを高いビルに囲まれて都市の一部分に組み込まれてしまったけれど、中央線の線路から見る時、その堂々とした風格は全く色あせる事がない。
聖堂の中に入ってみれば、東方教会特有の質素な造りの中に蝋燭の灯が輝き、ステンドグラスから入る柔らかい日差しに照らされたその堂内は、ここが日本であることを忘れさせてくれる空間だ。八端十字(ロシアンクロス)の東方教会の十字架はカトリックとまた違ったキリスト教空間で興味深い。

静寂な祈りの空間に心を落ち着けたい時、例え無宗教であったとしても再度訪れてみたい。ニコライ堂はそのように思わせる十分な宗教空間のように思う。

聖堂と門柱に輝く八端十字

聖堂と門柱に輝く八端十字

●37系統 担当:三田車庫
三田~御成門~日比谷公園前~小川町~淡路町~外神田二丁目~外神田三丁目~上野公園前~上野動物園前~池ノ端二丁目~千駄木二丁目
20系統と同じく不忍池の脇を専用軌道で通って上野界隈へ。昌平橋で神田川を渡り、皇居前広場、日比谷公園、東京タワー、増上寺と、景色の富んだ路線です。

Originally, written on June 05, 2010