第六十一話
冬晴れの二・二六〜6系統の風景

JR原宿駅を降りて神宮橋を西に取ると、右には広大な明治神宮、左には特徴的な形をした国立代々木第一体育館が建つ。この体育館は言わずもがな、昭和の東京オリンピックを期に建てられたもので、丹下健三によるもの。築六十年近く経つのだけれど、その意匠は全く色褪せることはなく、むしろ今の時代に未来に向かってこのような建物を設計することが出来るのかと思うほどだ。
体育館を過ぎると向こうにNHKを見ながら、南に渋谷の街を望む。再開発真っ只中の渋谷だが、こうして見ると新旧高低無秩序なビル群がボコボコ立っているようで一貫性のある風景ではない。渋谷という街を特徴づける光景とすれば、これはこれでアリかと思ったりもする。

明治神宮はまだしもその南と西(代々木公園)に広大な空間があるのは、ここが元々陸軍の練兵場であったからで、その土地が公設 – NHKも国営放送と思えばその流れ – のまま、今のこの地に広い空を守り続けた。東京にはこのような広大なパブリックスペースがあちこちにあるが、歴史遺産によって今に至るもので、他の日本の大都市では見られない、東京ならではの空間といえよう。

NHKの南側、宇田川町。渋谷税務署の北西角に、一体の観音像が立っている。北面し右手を空に向けて立つ姿はともそれば見過ごされるくらいのどこにでも見られるような観音様だ。ただお寺の境内でもなく場所を考えた時に唐突に現れる姿に、違和感を感じないこともない。

その姿には勿論由縁がある。
この場所は、かつて二・二六事件で決起した青年将校が刑死した陸軍刑務所の刑場跡である。鎮圧後、開かれた軍法会議を経て首謀者達はこの地で銃殺刑となった。その後29年を経た1965年、関係者達が元の陸軍刑務所の地に、慰霊像を建てたのである。

渋谷駅から都01系統の都バスで六本木に出た。このバスは新橋駅と結ぶ、かつての都電6系統の路線で、青山学院や骨董通りの経由が六本木通り経由に変わったが、今も都電よろしく高頻度で渋谷駅と六本木を結ぶ。地下鉄では行きにくい区間のため、バスの利用が多い。私も待たずにバスの乗客となった。

六本木交差点で外苑東通りを北に取り、東京ミッドタウンに出た。疫役のためか人の数は多く無く、ショッピングアーケードは閑散としていた。付随する東側の檜町公園は寒い中、日向ぼっこをする人達がポツリポツリといた。他の時期であれば近隣に住む人達がシートをひいて弁当を食べてたりするが、さすがにこの季節、わざわざ凍えるようなことをする姿は見られない。

次いで、向かいから少し入ったところの国立新美術館に足を向けてみる。こちらは更に人が少なかった。展示が途切れることは無いけれど、入場制限やらで敷居が高くなった。今回のコロナ禍は、文化的な刺激をも奪った。

東京ミッドタウンは古くは陸軍歩兵第一連隊が、国立新美術館は歩兵第三連隊が駐屯した地である。この両隊の一部が二・二六事件でクーデターを起こし、東京市の中心部を軍事的に占拠した。
当時の世相やら軍隊の立ち位置やら国の体制やらと、現代とは異なる時代の出来事ではあるが、この場を基点として事件が起こったのは事実だ。事件に関連した地で当時のままにほぼ残っていたのは九段の九段会館(元の軍人会館)くらいだったが、それとて老朽化で閉鎖となった。恐らくそれなりに興味を持つ人であったとしても、このような場所にわざわざ日本の歴史を重ねようとすることはないだろう。言い出したら東京はそこかしこに歴史の由縁が佇んでいるような地だ。二・二六事件が東京中を揺るがす大事変だったとしても、今の世には歴史の彼方となってしまい、研究者でなければ意識する方が変わっている。

であったとしても、このようにわざわざ訪れて考えてみたい。足を向けるのに苦労が無いのは東京(またはその近郊)に住む者の特権であり、何かを考えるきっかけに触れやすいということでもある。インターネットや書物を以てでは足りないという経験は今まで散々してきた筈で、こうして歩いて感じる体験はまだまだある。

冬晴れの綺麗な空の下、宇田川町の観音像は天の青に向けて指を掲げていた。訪れた時は誰もいなかったが、新しい花が添えられていた。歴史観察はさて置いて、自分も静かに手を合わせた。

天を指す慰霊像

天を指す慰霊像

●6系統 担当:青山車庫
渋谷駅前~南青山五丁目〜西麻布〜六本木〜溜池~虎ノ門~新橋
渋谷と六本木、官庁街、新橋を結ぶ、今でも移動の需要が非常に多い区間です。6系統の後継バス系統は六本木通りに進みますが、6系統が走っていた骨董通り経由六本木方面も別の系統が走り、その需要に応えています。
地下鉄が結んでいたとしても十分に需要があると思いますが、恐らくこのままバスが走り続けることになりそうです。