第五十二話
新撰組の眠る地〜41系統の風景

新撰組の京都での活動について書いた文はいくらでもある。
近藤、土方を中心とした鉄の集団について、ここでは鳥羽・伏見の戦い以降、敗戦を重ねた新撰組について触れてみたい。

京都時代ののち、その活躍がクローズアップされるのは斎藤一の会津戦争と、土方歳三の箱館戦争だろう。幕末で悲劇として描かれながら場面としては非常に高い感心が持たれる一戦。いずれも旧幕軍として新政府軍と刃を交えボロボロに負けることで、その活動を終える。旧勢力の悪あがきと言ってしまえばそれまでだが、巷で言う「義に殉ずる」という考え方を否定するほどに、私自身がひねくれているわけではない。

鳥羽・伏見で負けて関東に移動する途中で、更に甲州勝沼で負けて江戸に入るが、すでに幕府は政権を朝廷に戻してしまい統治の行く先は不透明で、待ち構える江戸在府の武士達の間では抗戦か恭順か意見の集約もままらない。結局勝海舟が代表となって白旗を掲げるものの、僅かに残った江戸の主戦派はその後に上野の山へ籠ることとなる。新撰組一派はそれらを待たずして継戦の意図で会津行を決め、近藤勇は名前を変えて江戸を出て総州流山に陣取った。すぐに追ってきた新政府軍に囲まれ近藤は申し開きをするが、近藤を知っている者が官軍側にいて逆に顔バレし、あえなく捉えられて江戸に再送りに。一方の土方や斎藤は逃れて北へ向かうがそれは別の話となる。大まかにはこんなところか。

捉えられた近藤は、中山道板橋宿南端の処刑場で打首となった。分かれた首は京都に送られて晒し首となったが、その後は行方知れずとなってしまった。

ここで出てくるのが、新撰組の旧二番隊隊長の永倉新八。

沖田総司や斎藤一と並んで剣の使い手として名を知らしめた永倉は、新撰組の残党が流山に向かう前に近藤と袂を分って別行動し、彼は彼なりに戦った後に明治を迎えた。
永倉は戦う佐幕派としての方向性は近藤と異なる道を取ったが、新時代に入って間もなくして、発起人の立場で近藤処刑の地に近接する場所 – JR板橋駅すぐの旧中山道の脇に、近藤、土方を筆頭とする戊辰戦争で倒れた新撰組一派の供養塔を建てた。

明治九年に建てられた供養塔は、前に立ってみると見上げるくらいの高さの立派なもので、「近藤と土方の墓」との文字が彫られている。近藤も土方もその経緯から墓には葬られていないが、意見を異にして別に走った永倉が供養塔を建てたというのが、しかも同じ建てるにしても近藤、土方の出身地である多摩や活動場所の京都ではなく、近藤臨終の地に近いところで建てたというのが感慨深い。恐らく建てられた当時は、板橋宿の中心からは微妙に離れ、中山道沿いに建物は並んでいたとしても田畑が広がる地だったと思われるが、塔は小さな石碑レベルではなく堂々としたものであり、中山道を通る人からは勿論のこと、遠目に見ても目立つものだったに違いない。

戊辰戦争では敵対した旧幕府側の勢力も明治に入ると時間を待たずに体制に組み込まれて、その短い期間に憎むべき対象の存在としては薄れた。いつまでも敵対していては立ち上げたばかりの新国家が成り立たないという時代の事情もあったろう。この塔が建てられた当時、維新側の志士を切りまくった新撰組は人々の記憶に十分に残る存在であった筈だが、既に供養が可能な社会に大きく変化していたことも押さえておきたい。この事実は、なんとなく太平洋戦争直後の日本の社会とも通じるようだ。

JR板橋駅は小さな駅で、この塔も今は駅前の住宅街に静かに建つ。歴史に名を残す新撰組に由縁のある場としては閑静な場所だが、魂が眠る地としては悪くない。

静かに眠る新撰組

静かに眠る新撰組

●41系統 担当:巣鴨車庫
巣鴨車庫前~新庚申塚〜板橋駅前〜板橋本町~志村坂上~志村橋
巣鴨から中山道を荒川の方に上る系統です。都電で最後に設定された系統でもありました。新河岸川にかかる志村橋の向こうはまもなく荒川、そして埼玉県を臨みます。