第四十七話
三丁目の夕日〜33系統の風景

何だかんだありながら東京の暑い空気をさらに熱くすべく開催されている東京オリンピック。街中を歩いていてもその雰囲気を感じる場面といえば、やけに警官がそこら中に歩いていることくらいか。

おそらく今頃は、日本全国からはもちろんのこと、世界中から人が集まっていたのだろう。それを賑やかというのかはどうかはわからないが、少なくともオリンピック前と変わらない閑散としている今の街とは別世界であったであろうことは間違いない。
緊急事態宣言にもかかわらず、酒を出す飲食店も普通にあるし人は歩いていて密を作っているとメディアでは報じられているが、それでも今の東京は災禍の前と比べて圧倒的に人は少ない。山手線や地下鉄は普通に座れるし、少し歩いてコーヒースタンドで休もうと思っても、大抵の場合は席をとることができる。当たり前のように思えるかもしれないが、休日に町歩きをしてコーヒーで休もうと思っても、喫茶店でスムーズに席に座れることなど出来なかったのだ。それほど街は人で溢れていた。

私個人としては、オリンピックをこの夏に行うことには反対だったが、オリンピックを東京で開催することは賛成だった。停滞した日本の流れに変化を起こす一つの起爆剤と思っていたから。
「落ち込んだ経済を復興に」とかいうことよりも、社会の変革をこのオリンピックをきっかけに起こすことが出来るのではないか、と考えていた。

1964年の東京オリンピックは、敗戦国日本が復興をする決定的な役目を果たした。それは主にインフラの面での貢献が大きい。当初の狙いは異なっていたとしても東海道新幹線はオリンピックに合わせて開業したし、高速道路網の最初の一歩となる名神高速道路も同様に開業してその後の国家動脈の契機となった。
それらのインフラは、敗戦で荒れた国土、経済から文化に至る各所での復興と発展の基礎となり、その後に続く昭和40年代の高度経済成長を支えた。同時に公害などの負の部分も引き起こすことになったが、現在私たちが総じてそれなりに生活ができる、そのきっかけの役割を東京オリピックが果たしたと言っても良いと思う。

では今回の東京オリンピックは、それが正常な状態で開催された場合、どのような世界を形作るものだったのだろか?

思うに、一層日本人と外国人が社会の中で分け隔てなく活動する社会に変わっていく、そのきっかけにオリンピックがなっていたのではないか、ということ。
旅行を通じた交流はもちろんのこと、今でも例えばサービス業や第一次、第二次産業で色々な名目で労働力として外国人が駆り出されているが、オリンピックを契機に一層外国人を受け入れることで、少なくとも大都市 – 東京では、普遍的にあらゆる場面で日本人と外国人が普通に隣り合って生活し、業種を問わず仕事を共にするような社会に向けて加速していたのでは無いだろうか。
インフラの点ではほぼ成熟し切った社会にあって、生活と活動の場としてのコスモポリタニズムが東京を筆頭に広がり始まることで、社会が否応無しに変化に向けて加速する – 恐らく国も人口減少の時代を迎えて外国人の活躍を今まで以上に促進しする – そのきっかけにこのオリンピックを位置付けたのでは無いかと思う。

映画「ALWAYS 三丁目の夕日」の第二回は、64年のオリンピックを控えた東京がその舞台だった。「鈴木オート」一家が住む街は今の飯倉あたりで、描かれる都電の行き交う通りは外苑東通り。そこを走るのは9系統と33系統だった。映画の中では、発展していく街を東京タワーを望みながら都電は進んだ。走る33系統は国立競技場のある神宮外苑から主人公たちの街を結ぶ。東京タワーは高く聳え、描かれる夕日は美しく、それぞれが明日に続く存在だ。

この休み、暑さにうだる中、33系統と同じように私も外苑から神谷町まで歩いてみた。休日にも関わらず人通りは少なく、街は閑散としていて高揚感は無かった。

元々想定していた世界のきっかけ – 東京の次の姿を形作ることは出来なかった。

オリンピックの後、今後の社会を新たに形作り、次の日本の方向性を指し示す力、そのきっかけを立ち上げる力が、この東京にあるだろうか?

今回の東京オリンピックが、衰退の一途を辿ると言われる日本の、夕日ではなく落日とならないことを願わざるを得ない。

国立競技場の"TOKYO 2020"

国立競技場の”TOKYO 2020″

●33系統 担当:広尾車庫
四谷三丁目~信濃町~北青山一丁目〜六本木~飯倉片町~神谷町~浜松町一丁目
新宿区から麻布、芝を結ぶ系統。神宮外苑の脇を通り、六本木を抜けると正面に東京タワーを臨みます。