第十話
投込寺の句~31系統の風景

上野から千住大橋の方へ向かう途中、常磐線ガードをくぐる手前、昭和通りのすぐ際にありながらも交通量の多い車道の喧噪とは離れたところに、浄閑寺という寺がある。

この寺の門前に小さな三叉路があるが、その一番南の通りは大関横丁の方から来る土手通りの方に向かってまっすぐ伸び、土手通りに合流し道幅を広くしてその先は浅草の方へ通じる。
浄閑寺の門前から来て土手通りを進むあたりはかつての「日本堤」と呼ばれる土手の跡。水路(山谷堀)の際に土手が築かれており、これが市中と市外を分けていた。日本堤は江戸の浮世絵にも書かれ、また助六にも出てくるかつての江戸の名場面。この土手を有名にするのはその目の前にある吉原のお陰に外ならない。

吉原の歴史について詳しく述べる必要は無いだろう。
今でこそ風俗街となっているが、吉原大門から先の今の千束四丁目付近は、江戸~東京のみならず日本有数の花街として栄えた地域である。日本堤の吉原大門交差点付近、見返り柳から吉原大門に通じる道である衣紋坂には鍵型の曲がり角が付けられているが、これは日本堤沿いから吉原の中を直接見る事が出来ないようにするため。古地図にははっきりと鍵型の曲がり角が描かれているが、今ではその角もゆるやかになっているものの、かつてを偲ばせるように道路が曲がりくねっている。

大学時代、美学美術史の授業は江戸の浮世絵を題材としたものだった。遠近法についての授業であったが、浮世絵を通じて江戸の風俗についても講義を受けた。江戸時代の吉原の遊びとは本質的に今とは全く違うものであり、迎える方には「格」と「気品」が存在し、行く方にも「粋」と「財力」が求められた為、そこには自然と文化が生まれたのだ。

勿論きらびやかな見かけの世界だけではない。花魁を上位とする遊女の世界は、文字通り籠の鳥と言うのに相応しく、一度その世界に踏み入れたが最後、容易に出ることがかなわぬ世界である。
吉原で一生を終える遊女も多く、そうした女性が葬られたのが三ノ輪橋際の浄閑寺であった。浄閑寺は音無川と日本堤沿いの山谷堀で結ばれる水路のすぐ外側にある。現在では道路の下に暗渠となってしまったが、水路の内側にある吉原と浄閑寺を分けるこの水路は三途の川と言えなくも無い。

浄閑寺は別名「投込寺」とも言う。吉原で亡くなった遊女が投げ込み同然にこの寺に葬られたことから、この名で呼ばれる。ここに葬られた遊女の平均年齢は22歳前後。寺の供養塔には「生まれては苦界、死しては浄閑寺」の句も詠まれており、吉原遊女の多くの行き着く先はこの寺であった。
この供養塔、「新吉原供養塔」と言い、地蔵菩薩が見下ろすと共に扇やかんざしが供えられている。浄閑寺の裏手、墓所を進んだ奥まった所にひっそりと建つその心は、吉原遊女の悲哀だろうか。

江戸の名残を残す吉原遊郭が実質的に幕を降ろしたのは、敗戦後のGHQによる命令に依って。その後は単なる風俗街になった。今この地を歩くと無味乾燥なビルが続くが、その近くには昔ながらの天麩羅屋などが軒先を構えており、往時の雰囲気を僅かながらに伝えていた。ゆっくり散策するのには多少の勇気が必要な場所であるけれど、江戸の文化を想像するのには是非共歩いてみたい場でもある。

閑静な浄閑寺門前

閑静な浄閑寺門前

●31系統 担当:三ノ輪車庫
三ノ輪橋~千束二丁目~菊屋橋~三筋二丁目~蔵前~浅草橋~小伝馬町~室町三丁目~新常磐橋~丸ノ内北口~都庁前
合羽橋道具街や浅草橋問屋街から東京駅を結ぶ路線。この道具街や問屋街あたりは、今でも昔からのお店を見ながら走ることができます。

Originally, written on May 22, 2010