第七十話
置行堀の河童〜38系統の風景

暗闇に恐れがあった時代は遥か昔。今の東京で明かりが消えるなどと想像することさえなく、プラネタリウムでもなければ大都会の空にどのような星が輝いているかなど知ることもない。何処を歩いていたって街灯は照っているから、特に山手から下町にかけてのエリアでは、三大霊園の中でもなければ明かりに困って歩くのにも困るということはそれ程にはないと思う。

けれど、静けさはまた別の話である。
明かりはあっても静かな場所は案外に多く、夜の7時を過ぎた頃でも人気が途絶えて歩くのに勇気がいるような場所は少なくない。例えば日中に人気の谷中や千駄木あたりでも – 退勤時に運動を兼ねて上野界隈から歩くことがあるのだが – 不忍通りのバスの往来を外れれば、今に残る古い家並みの木々の茂みにかつての東京の夜の静けさを感ずることもある。
坂の名前に暗闇坂とか幽霊坂とかいうのがあちこちに残るけれど、これらはかつての暗さと静寂さを今の世に伝えるもので、生い茂る高い木々や竹藪の向こうに化かす狸を見たという小話もあながち大袈裟な話で無かったろうとも思うのである。

そんな昔の話の幾つかの一種である本所七不思議の内で知られた話に「置行堀」がある。「置いてけ堀」と書けば、なるほど言葉だけは聞いたことがあると思うだろうか。

隅田川の東側、今の両国、押上、錦糸町のあたりは、その南側に位置する深川と繋がるように、かつては縦横に水路が走る場所だった。その昔湿地帯であったところを江戸時代に開墾がされ、水路を中心に田畠広がっていたらしい。都市が広がるにつれて住宅地や商業地が東へと広がっていくが、その過程は水捌けの悪い土地を人の住む場所に変えていく作業だった。後年、それらの水路の殆どが埋め立てられていくが、今でも平地が碁盤の目で街が造られている由縁は明らかである。

そんな水路の街の錦糸町の外れ、亀戸との境目に置行堀の案内が立っている。

その昔このあたりの水路で魚を取って帰ろうとする夕暮れ、釣った魚を「置いてけ」と呼ぶ声が水から聞こえてきたらしい。あたりは田畑の淋しいところ。夕闇の暗さと静けさも手伝って釣り人は恐怖を感じて逃げ帰るのだそうだ。
はて、こんな暗く寂しいところで声をかけるような存在は何かと地域の人達が調べてみたところ、どうやら河童の仕業ではないかということに大勢が落ち着いたそうである。

実際、錦糸町から少し西に行ったところの江東橋には河童の像が立っており、この界隈ではその存在が多く語られたことを今に示している。なるほど、河童の仕業であれば本所のあちこちで知られていることだから合点がいく。芥川龍之介の代表作「河童」では信州上高地にその国への入り口があるといい、河童橋として世に知られるが、芥川は元々両国に学んだ人だ。本所で河童を身近に感じたのかもしれないと勝手に思っているが、そのような指摘をした文章には出会ったことはない。

いや、戯言を失礼した。
連日の暑さに頭をやられたのかもしれぬ。
令和の時代にあって置行堀の声に引き込まれるのは困難なくらいに江東界隈は喧しいが、間近の京葉道路を走る車の音が不思議とかき消されるくらいに、言い伝えのある地域は静かな夜となるのである。

河童もそこいらに声を潜めており、声をかける機会を伺っているかもしれない。

おいてけ堀の碑文

おいてけ堀の碑文

●38系統 担当:錦糸堀車庫
錦糸堀車庫前~水神森〜境川〜洲崎~門前仲町〜永代橋〜日本橋
錦糸町から亀戸方向に向かい、南砂町、東陽町、木場、門前仲町など深川地区を横断して隅田川を渡ります。現在でもほぼ同じ経路で錦糸町〜門前仲町を都07系統の都バスが結ぶなど、移動の需要が多いルートです。

投稿者:

Mr.Problem

しがない制作屋です。 活動範囲:Web Producer / Director / html全般 / CSS全般 / WordPress / ガンダム / ドラクエなど..。企業内のWeb担当として活動。神奈川の海沿い生まれ。京都、大阪、神戸と流れて、今は東京在住です。