神田神保町は全国に知られた書店街。「古書街」と書きたいところだったが、三省堂のお膝元であるし、書泉や東京堂などの新刊書店も並んでいて、書店街と書く方が適当では無いかと思う。
東京のあちこちに巨大な本屋があり、インターネット隆盛で家に居ながらにして新刊でも古書でも手に入る時代だ。東京に住んでいてでさえ、わざわざ本を求めに神保町に行くのは今の時代の行動であるのかとも思うが、暇があると神保町の駅を上がっている自分がいたりするのだから、この街が引き寄せる力というのは一体何なのだろうかとも考えてみたりもする。大体、漱石の話にも出てくるくらいだしまた漱石の初版本を売っているような店もあるから、この街の吸引力とは昨日今日出来たものではなく、便利この上無いインターネットにもそう簡単に負ける訳にはいかないのかもしれぬ。
周辺には明治大学や日本大学、専修大学などの有名どころが居座っているけれど、どちらも別の場所に大きなキャンパスを構えているので、神保町とか駿河台辺りが学生街というような感じでもない。むしろ自分のような暇人が本屋に出たり入ったりして、その辺りの喫茶店でダラダラしている街、という方が正しい。繁華街から微妙に離れているのでここから別の場所に移るのも面倒だし、本でも買って一日つぶそうといった面々が多いような気もする。
神保町駅A7番出口を出たところに「さぼうる」はある。靖国通りとすずらん通りに挟まれた小道。昼でも薄暗い通りにログハウスのような風情でその店はたたずんでいる。今更言うまでもない超有名な喫茶店で、隣も「さぼうる2」として営業している。「2」はナポリタンが有名な珈琲屋兼軽食屋だが、オリジナル「さぼうる」は典型的な喫茶店だ。
狭い店内に暗い照明と小さい椅子。お世辞にも空間としてはゆったり出来る所ではないけれど、そこには前時代から止まった時間が流れている。このような店に来ると煙草も喫茶店の重要な要素の一つだということが良く分かる。嫌煙派が煙草の迷惑を説くのはこのテの店では逆に無粋で、どうしても煙が嫌ならここには来てはいけないのだ。私はとうにやめた口で他の喫茶店なら禁煙席に座るのを当然としているけれど、ここでは我慢する訳でもなく、店の装飾の一つとしてそれを受け入れている。
この店で出てくるアイスコーヒーは甘い。
今時の喫茶店、特にチェーン店ではガムシロップを別で出してくるから、甘いアイスコーヒーに違和感を覚える方も多いかもしれない。けれどアイスコーヒーとは元来甘い飲み物なのだ。
学生時代にアルバイトをしていた京都の珈琲屋で叩き込まれた知識によると、昔ながらの喫茶店では「コーヒー」とはホットで出すもので、アイスコーヒーは「お飲み物」の項目でメニューに書かれるものである。つまりアイスコーヒーはコーヒーを元にした甘い「飲み物」であるのが、時代が下って「コーヒー」の一種として出されるようになり、今では「冷たいコーヒー」となって苦いコーヒーに自分で味付けをするような「親切な」出し方が主流になった。実際自分が働いていた店では甘いアイスコーヒーを出していたが、甘いことにクレームを受けたこともある。厳密には要求したお客さんの飲み方が誤っていたのだが、もうそんな事が通用する訳もないくらいに苦いアイスコーヒーが広まった。ちなみに関西だと古い店では「コールコーヒー」と書かれていたが、今では殆どこんな言い方を見ることも無くなった。
今でも甘いアイスコーヒーを出す「さぼうる」は、時代と無関係にコーヒーをいれる「時代外れ」の店だ。しかしこの神保町という書店街自体が、インターネット全盛の時代にそれとは無関係に古書を出している街である。言うなれば、神田神保町は時代とは無縁の時間が流れる街として存在しているのかもしれない。
50年以上の営業「さぼうる」
●2系統 担当:三田車庫
三田~御成門〜西新橋一丁目~日比谷公園前~神田橋~一ツ橋~神保町~文京区役所前~東洋大学前
末期には朝、夕2本ずつの営業しか無かった2系統。今はまったく同じ区間の地下を都営三田線が走っています。
Originally, written on November 06, 2010